沿革

馬肉料理が原点

当社は、大正13年(1924年)に旧西高遠町内(現在の伊那市高遠町)で、食肉販売業と、馬肉のすき焼き(サクラ鍋)を中心とする宴会業を開業しました。同時に、馬の仕入れと販売も行い、常時数頭の馬を厩で飼育していました。

当時の馬は、現在の車やトラクターと同じ存在で、山仕事、畑・田の仕事、そして資材の運搬や移動に必要不可欠で、農家には人が生活する居間の正面に馬小屋が土間を挟んで配置されていました。同じ屋根の下で、馬の朝ご飯を食べさせてから人間が朝食を食べる、そんな生活が一般的な暮らしの風景でした。

紅葉軒創業者の高島高次・とよ

古来より信州は馬の生産基地で、牧場と言えば「馬牧場(牧)」で夏の農閑期には高山の牧場に馬を放ち、山菜を取る生活でした。その中で馬肉を食する食文化も育まれており、馬刺し、サクラ鍋、おたぐりなど伊那谷独自の食文化が形成されました。

当店もその中で馬肉を中心とする食肉販売とサクラ鍋の店として開業し、地域の皆様にご愛顧頂いて来ましたが、牛や豚そして鶏肉など食肉の多様化と、流通システムの変化の波の中で、業務内容が大きく変わってきました。

特に高遠町が観光のまちづくりに本格的に取り組む中で、南アルプスの北の端にある入笠牧場に山小屋とキャンプ場を開設したり、高遠城址公園内に出店しました。また、エネルギー革命の流れに乗ってプロパンガスや住宅設備機器の販売などにも手を広げ事業を発展させてきました。

しかし、日本全体が高度成長した20世紀からバブル崩壊を経て長期不況の21世紀を迎え、地域を代表する多くの企業・店舗が、倒産や廃業をする姿を見る中で、生き残るために新しい道を模索し試行錯誤を繰り返してきたように思います。そして、時代は「多角化」ではなく「業態革新」と「個性化」を求めているのではないかと考えるようになりました。

三代目である私が考えた方針は、まず第一に「農業」と「飲食業」の融合です。

農業との融合に最初に取り組んだのは「高遠そば」の復活プロジェクトに参加したことがきっかけでした。地元で栽培された玄そばを製粉してそばを打ち、お客様に食べて頂くという一見ありふれた目標を実現するために、予想以上の大仕掛けの取組が必要でした。行政、JA、農家、飲食店だけでなく、地域住民の蕎麦打ち文化の再興まで目指す、気の遠くなるような道を、公民館の事業とも一体となり歩んできました。

目標を共有する多くの先輩や友人たちと20年近い取組みを積み重ね、「高遠そばの里づくり」という行政が掲げた目標に近づいたと実感できることは幸せなことだと思います。

二つ目は商品開発と製造販売業への挑戦です。ものづくり企業への変身と言っても良いかもしれません。

きっかけは、「高遠辛味大根研究会」への参加と、「高遠とうがらしプロジェクト」への取り組みでした。

「高遠辛味大根研究会」は、高遠そば復活プロジェクトの一環で薬味として重要な辛み大根の種が福島県の山奥から里帰りし、改良を繰り返した特産品開発です。

伊那谷には信州大学農学部という「知の殿堂」があり、大根やとうがらし、そばなど農産物の専門研究者が多く在籍し研究を行っています。幸運なことは信州大学が「地域に開かれた大学のトップランナー」であることでした。当社や地域が抱える農業や地域課題解決に、日本有数の先生方や熱心な学生諸君が精力的に協力して下さるという恵まれた地域であることも現在の到達点に至る重要な要因であると感じています。

そして当社は、大根博士やトウガラシ博士などのご指導を賜る中で地域特産品開発への夢と使命感を企業として抱くようになりました。

現在、当店は食べておいしいと感じたものをお客様が買って帰ることが出来る「工房レストラン」づくりを目指しています。「農家と協力して作るファームレストラン」という目標も抱いています。

「こんなところにこんな店があったんだ」と、訪れた皆様が新鮮な驚きと喜びを感じて頂けるような店づくりに取り組んで行きたいと願っております。